デザートの極点を見た話

 

こんなにもスイーツに感動したのは生まれて初めてかもしれない。港区に期間限定で出しているお店でデセールのコースを食べてきた。デザートが6皿出てくるという女子垂涎モノのコース。

 

わたしは今までいろいろなパティスリーでケーキを食べてきたし、それなりに美味しいケーキを食べてきたはずだ。チョコレートだってそう。焼き菓子だって和菓子だってそれなりに美味しいものを食べてきたはずだ。

 

でも、今日いただいたデセールコースはそれらを優に越えた。それどころか天井をブチ破って極致にまで到達してしまった。デセールが到達しうる頂点に辿り着いてしまった。パティシエールのお姉さんお墨付きのお店だったので期待値は高かったはずだが、想像していたよりもはるかに美味しかった。

 

あまりに完璧な6皿だった。悔しいほどに完璧なコースだった。

 

せっかくなので、一皿一皿思い出しながらメモと照らし合わせて書きしたためておこうと思う。

 

まず、キャベツと林檎のジュース。文旦という柑橘の果物のオイルを混ぜているらしい。すっきりとしていて口当たりも良く飲みやすい。

 

次にパンナコッタと凍らせたヨーグルト。オリーブオイルとバルサミコ酢がいちごの砂糖漬けの上品な甘さを引き立てる。鮮やかな花弁を喰むと口内に花の香りが広がる。

 
続いて檸檬を使ったデセール。檸檬のシャーベットとサワークリームに檸檬と蜂蜜のソースがかかっていて酸味と甘みの均衡が絶妙。乾燥させた檸檬の果実とパイの生地の食感が楽しい。
 
そして豆類を使ったデセール。緑色が目に鮮やか。えんどう豆のケーキに発酵バターを加えたクリームと抹茶のパウダーがかかっていた。スナップエンドウのピューレと聞いて恐る恐る口にしてみたが、口溶けが滑らかで塩味が効いていてすごく美味しかった。まぶされたピスタチオとミントの相性が最高。パティシエの方は天才だと確信した。
 
チョコレートのデセール。球状のフォンダンショコラと桜のアイスに温かいチョコレートが贅沢にかけられている。ヴァローナのチョコレートらしい。少ししょっぱいチョコレートのサブレと桜のメレンゲ菓子が乗っていた。
 
最後はシンプルなクレープ。凍らせたバターを焼きたてで温かいクレープの熱で溶かして食べる。こんなにも美味しいクレープがあるのかと驚愕した。
 
デザートが6皿と聞くとチョコレートやら砂糖やらを連想して胸焼けしそうだが、実際に食べてみると、酸味や塩味がアクセントになるように計算して作られているため全く飽きが来なかった。どれか一皿が取り立てて美味しい、というわけではなくて、コースとして成立していた。とにかくバランスが良かった。一皿一皿見た目が凝っていて目にも楽しかった。
 
デセールとは、食事のおまけではなくて芸術だと心から思った。メニューが変わったらまたあのお店に行こう。
 

紅をさすということ

 わたしの好きな日本語表現の一つに「紅をさす」という言い回しがある。特に、頬紅や口紅をつけること。別に「つける」でも「塗る」でも構わないけれど、「紅をさす」というこの微妙で繊細なニュアンスが好きで仕方がない。この言い回しを聞くと思い浮かべるものーー細身の紅筆、握る手の冷たさ、筆先を平たく整える細やかな指、ルージュの鮮明な赤色、覗き込む小さな鏡、筆に触れた瞬間に染まる唇、妖しく艶やかな微笑み。これはわたしだけの感覚かもしれないけれど、「紅をさす」という表現には「つける」「塗る」にはないようなニュアンスを含んでいると思う。

 そもそも「紅をさす」という言葉はどこから生まれたものなのかと気になって、日本における化粧について少し調べてみることにした。

 古代より魔除けとして赤い塗料を顔に塗る「赤化粧」は広く伝わっていたようだけれど、その後飛鳥・奈良時代に隋や唐より化粧品や化粧法が伝えられたという。この時代は唇を濃い赤色で染め上げる化粧が主流だったという。平安時代になると、遣唐使廃止の影響により国風文化が栄え、女性の化粧方法も日本独自のものへと変化を遂げた。ここで、下唇にほんの少しだけ「紅をさす」風習が生まれたという。鎌倉時代から戦国時代にかけては、新しい化粧法として頬紅が取り入れられていった。しかし、江戸時代初期には女性向けの教養書に「紅などはうすうすとあるべし」などの記述が見られ、薄化粧が推奨されたという。また中期以降になると、非常に高価な紅花を多量に使って唇が黒に近い黒緑赤色になるまで重ね塗りする「笹紅」という化粧法が流行したともいう。

 つまり、口紅を「塗る」習慣が出来たのは飛鳥時代。口紅を「さす」習慣ができたのは平安時代、ということ。平安時代より日本人の女性は口紅を塗らずに「さし」てきた。果たして、この微妙な言語のニュアンスは日本人独自のものなのか。

 英語では「口紅を塗る」ことを"put on lipstick"や"wear lipstick"、"apply lipstick"という。"wear"の使用は結構好きだし、相性がいいと思う。ただ、これでは「さす」というニュアンスが伝わらない。「薄くつける」という時もただの"put on light lipstick"だし、"spread out lipstick with finger"だとどうも娼婦っぽい。いまいち「さす」に対応できるような英語が思いつかなかった。

 じゃあ、アラビヤ語はどうだろうと思って辞書を引いてみた。「口紅を塗る・つける」ということは"استخدمت احمر شفاه"だという。ここで使われている動詞は"خدم"(仕える、雇う)という動詞のX形で、意味としては、"to employ, hire, take on, engage the services, to use, make use"で、なんだか不思議な言語感覚だなあと思った。これも「さす」という微妙なニュアンスを孕まないようだ。

 また、「紅色」とは「赤色」ではない。「赤色」はあくまでも光を表す言葉で、「夜が明ける」時に空が白むように「あかるくなる」ことが起源だ。一方「紅色」は、紅花から抽出された染料の鮮やかな赤色を指す。(余談だが、紅綬褒章のリボンの色は紅色。日本国旗の日の丸もまた、紅色と決まっている。紅葉に関しても、葉が紅によって染められてゆく光景を髣髴とさせるため、「紅」という言葉が当てられているという。)紅色はずっと情趣的な色だと見なされてきた。

 うろ覚えだが、どこかの雑誌でshu uemuraやDiorが日本の「紅色」からインスピレーションを受けて作ったルージュが紹介されていた。誌名も時期もはたまた品番すらも覚えていないので恐縮だが。トレンドのせいもあってか、しばしば「紅色」の口紅は一口に「赤リップ」と呼ばれるが、これは勿体ない気がする。「紅」「紅」だ。どうせだったら言葉は贅沢に使った方が楽しい。

 紅色は気高く、また凛々しい色であるがゆえに、身につける女性にはそれ相応の内面が求められる。だが、わたしの友人はCHANELの99番の真紅の口紅を躊躇いもなく引く。それもわたしの目の前で堂々と引く。小さく整った唇は口紅が触れた瞬間に紅く染まる。その所作は、まさに「紅をさす」という言葉を連想させる美しい所作だ。わたしはその光景に痙攣的な美をおぼえる。彼女は「ルージュを引く」という言葉を使うけれど、わたしにとっては「紅をさす」所作そのものだった。彼女は気高く、凛々しく、しなやかで強い自我を持っているからこそ、「紅をさす」に足る女性だと言えるのだと思う。

 こんな散文を書こうと思ったきっかけは、先日資生堂の美容部員のお兄さんが「紅をさす」という言い回しを使っていたからだ。美しい日本語だとつくづく思い、今回「紅をさす」ということについて考えてみた。「紅をさす」に見合う女性になりたいものだとぼんやり思った。

 

劇団KAKUYO『ひとよ』を観て

「今度芝居を見に行かない?下北沢で演るんだけど、君近いだろう?」こう、サークルの先輩から連絡が来た。現代演劇を好む先輩からのお誘いはいつでも魅力的だ。以前、先輩に連れられて観に行った現代演劇は非常に前衛的で、素人目から見ると「良い」か「悪い」かもさっぱり分からなかった。しかし、複雑なプロットや役者の一挙一動全てが目新しくて、ただただ役者を食い入るように見つめていた。芝居が終わった後に、「あの場面は〜〜のオマージュだったね」とか「二次大戦のメタファーだと思ったんだけど、どう思う?」などと聞かれて、訳が分からなかったと正直に答えた気がする。

しばしば書物や絵画は「死」だと言われる。かのボルヘスはこうも言った。「書物とは、果たして何か?書物は絵画と同じで、生あるもののように見える。しかし、われわれが何かを尋ねても、答えることはない。そこでわれわれは、それが死んだものであることを知る。」わたしたちは死んだ書物に優しく目を向け、それの生あったころのことをじっと想像し、作者の生きる筆遣いを想像する。今のわたしは、それが「死」んでいる書物との向き合い方だと思っている。

それに対して現代演劇は間違いなく「生」だと思う。迸る「生」のエネルギー。それがわたしの目の前、鼻の先でぶつかり合い、役者の「生」を正面から投げつけられる。そして役者の熱気が観客に伝染し、観客の熱気が役者に伝染する。それが現代演劇だと、素人ながらにわたしは思っている。

劇団KAKUYOの『ひとよ』を観た。下北沢に住んでいながら初めて、スズナリ横丁というサブカル臭い小劇場に来た。一段踏む毎に音を立てて軋む鉄製の錆びた階段を上ると、わたしの部屋くらいの大きさの小さなホールが広がっている。そこで暫く入場を待つ。先輩からしりとりをしようと言われるが、やんわり断る。

家庭内暴力を振るう父、それに怯える子供達、子供を守るために意を決して旦那を殺した母。母が父を殺めたその一夜が、家族の関係を変えてしまう。そこでは、家族みんなが腫れた傷をぎゅっと庇って生きていた。ストーリー自体はどこかで見聞きしたことがあるようなものだし、抽象的でも難解でもなく、すんなり理解できた。しかし、舞台に立っていたのは、役者ではなく、子供を守るために夫を殺した母親と、母親が殺人犯であることによって社会から疎まれてきた子供たち本人であった。目の前には生きている人間の喜怒哀楽があった。演技ではなく、真の喜怒哀楽であった。

どうでもいいけれどわたしは喜怒哀楽の激しい人間が苦手だ。人間らしいから苦手だ。多少隠すことこそが美徳だとさえ思っている。しかし、わたしが苦手だろうが苦手じゃなかろうが人間には喜怒哀楽がある。役者たちはひたすら観客に喜怒哀楽をぶつけてくる。人間の「生」を突きつけられたような気がして、非常にショックを受けた。

芝居が終わって、先輩は椅子から立ち上がり大きく伸びをする。現代演劇の「生」を目の当たりにしたわたしは、しばし放心状態で立ち上がることができなかった。先輩は、そんなわたしを見て「現代演劇は面白いだろ」と言った。初対面の時に澄まし顔で「歌舞伎しか見ないので」と言ったことを少し後悔しながら「はい、面白かったです」と言った。「生」を魅力的に感じることができた良い演劇だったと思う。

六本木歌舞伎『地球投五郎宇宙荒事』を観て

 タイトルを見てもらえばお分かりになるかと思うけれど、もう全然文学に関係がない。無理やり関係があると言ってしまえばまあ関係あるけどやっぱり関係ない。でも、今日は歌舞伎の話がしたい。歌舞伎だ。これまた渋いけれど、わたしはめちゃくちゃ歌舞伎が好きだ。

 先月の話で恐縮だが、六本木歌舞伎「地球投五郎宇宙荒事(ちきゅうなげごろううちゅうのあらごと)」を観に行った。忘れない程度に、記述しておきたいと思う。

 本作は、今や歌舞伎界を担う世代となった市川海老蔵中村獅童宮藤官九郎三池崇史と手を組んで作成した新作歌舞伎である。訳がわからないくらい大物揃いだ。

 「地球投五郎宇宙荒事」という外題を初めて聞いた時、自然と笑みが零れた。地球を投げるのか、しかも荒事なのか。一体彼らがどんな歌舞伎を作るのか気になって気になって仕方がなかった。

 猿でもわかる勧善懲悪。時は元禄、突如江戸に襲来した謎の地球外生命体(中村獅童)に正義の味方・地球投五郎(市川海老蔵)が立ち向かうという単純な筋書き。今回は新作歌舞伎ということで、特に文献も読まず予習なしで観劇した。

 幕が開くと、楽屋裏を再現したセット。今回の「地球投五郎宇宙荒事」が生まれるきっかけとなった楽屋裏での何気ないやりとりをコント風に再現する。市川海老蔵が私服にサングラス姿でブログ更新のためにカシャカシャと自撮りをしながら楽屋入りする。続いてはちゃめちゃなテンションの中村獅童が大騒ぎしながら楽屋入りする。二人は、自らの手で隈取りを施しながら、漫才を連想させるような軽調なテンポで掛け合いをする。

 海老蔵が「なんかさ、地球を投げちゃうような面白い歌舞伎やらない?ほら、江戸にさ、宇宙人が現れてそれを助けるようなやつ、どう?面白くない?みーくんは悪の親玉やってよ」と聞く。獅童は、「え〜っ、俺悪役?まじ?ダースベーダー?」と返すもノリノリ。海老蔵はここで「スターウォーズってさ、突き詰めれば歌舞伎じゃん?ガンダムだってウルトラマンだって進撃の巨人だって俺に言わせれば歌舞伎だよ」と言っていた。このさりげない台詞は、正直に言ってめちゃくちゃかっこよかった。彼にしか言えない台詞だと思う。

 楽屋裏でのコントが終わると、舞台は暗転する。時は江戸時代。賑やかな町人たちが集い、歓談している。突然舞台上部からUFOが降りてくる。UFOから降り立つのは宇宙人役の中村獅童。名は「駄足米太夫(ダースベーダー)」だ。歌舞伎っぽい名前にしているけれど、全くふざけ倒している。腰から抜いた日本刀の蛍光色に光る様子は、まさにライトセーバー。遊びすぎだよ。

 本来、歌舞伎は大衆演劇だ。格式ばった文化ではない。誰もが気軽に見れるような大衆演劇であるべきだ。決して、閉じられた文化ではない。もっと開かれた演劇であるべきだ。この演目は、そんな「開かれた文化としての歌舞伎」を実現した素晴らしい演目であった。金髪のギャル4人組が訪問着を着て歌舞伎を楽しんでいる光景は、市川海老蔵ならびに若手や中堅の歌舞伎役者たちが目指している歌舞伎であったに違いないと思っている。伝統を守り、かつ伝統を作る役者の姿勢には頭が上がらない。日々更新される伝統を目の当たりにすることができた、とてもいい舞台だった。