劇団KAKUYO『ひとよ』を観て

「今度芝居を見に行かない?下北沢で演るんだけど、君近いだろう?」こう、サークルの先輩から連絡が来た。現代演劇を好む先輩からのお誘いはいつでも魅力的だ。以前、先輩に連れられて観に行った現代演劇は非常に前衛的で、素人目から見ると「良い」か「悪い」かもさっぱり分からなかった。しかし、複雑なプロットや役者の一挙一動全てが目新しくて、ただただ役者を食い入るように見つめていた。芝居が終わった後に、「あの場面は〜〜のオマージュだったね」とか「二次大戦のメタファーだと思ったんだけど、どう思う?」などと聞かれて、訳が分からなかったと正直に答えた気がする。

しばしば書物や絵画は「死」だと言われる。かのボルヘスはこうも言った。「書物とは、果たして何か?書物は絵画と同じで、生あるもののように見える。しかし、われわれが何かを尋ねても、答えることはない。そこでわれわれは、それが死んだものであることを知る。」わたしたちは死んだ書物に優しく目を向け、それの生あったころのことをじっと想像し、作者の生きる筆遣いを想像する。今のわたしは、それが「死」んでいる書物との向き合い方だと思っている。

それに対して現代演劇は間違いなく「生」だと思う。迸る「生」のエネルギー。それがわたしの目の前、鼻の先でぶつかり合い、役者の「生」を正面から投げつけられる。そして役者の熱気が観客に伝染し、観客の熱気が役者に伝染する。それが現代演劇だと、素人ながらにわたしは思っている。

劇団KAKUYOの『ひとよ』を観た。下北沢に住んでいながら初めて、スズナリ横丁というサブカル臭い小劇場に来た。一段踏む毎に音を立てて軋む鉄製の錆びた階段を上ると、わたしの部屋くらいの大きさの小さなホールが広がっている。そこで暫く入場を待つ。先輩からしりとりをしようと言われるが、やんわり断る。

家庭内暴力を振るう父、それに怯える子供達、子供を守るために意を決して旦那を殺した母。母が父を殺めたその一夜が、家族の関係を変えてしまう。そこでは、家族みんなが腫れた傷をぎゅっと庇って生きていた。ストーリー自体はどこかで見聞きしたことがあるようなものだし、抽象的でも難解でもなく、すんなり理解できた。しかし、舞台に立っていたのは、役者ではなく、子供を守るために夫を殺した母親と、母親が殺人犯であることによって社会から疎まれてきた子供たち本人であった。目の前には生きている人間の喜怒哀楽があった。演技ではなく、真の喜怒哀楽であった。

どうでもいいけれどわたしは喜怒哀楽の激しい人間が苦手だ。人間らしいから苦手だ。多少隠すことこそが美徳だとさえ思っている。しかし、わたしが苦手だろうが苦手じゃなかろうが人間には喜怒哀楽がある。役者たちはひたすら観客に喜怒哀楽をぶつけてくる。人間の「生」を突きつけられたような気がして、非常にショックを受けた。

芝居が終わって、先輩は椅子から立ち上がり大きく伸びをする。現代演劇の「生」を目の当たりにしたわたしは、しばし放心状態で立ち上がることができなかった。先輩は、そんなわたしを見て「現代演劇は面白いだろ」と言った。初対面の時に澄まし顔で「歌舞伎しか見ないので」と言ったことを少し後悔しながら「はい、面白かったです」と言った。「生」を魅力的に感じることができた良い演劇だったと思う。