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『沈黙』の誤読と的外れなコメントに対しての批判

マーティン・スコセッシ監督『沈黙』を観た。と同時に、原作の遠藤周作『沈黙』を読み返した。

 

ただただすごかった。めちゃくちゃよかった。映画では、小説のような書簡形式の一人称での内面描写ができない。したがって心情描写に様々な苦労や工夫があったに違いない。ラストシーンなどは特に顕著だ。主人公のロドリゴが人目を避けてもなお信仰を持ち続けたことを匂わせる表現方法。超感動した。

 

ワンワン泣きながら映画館を出た。すぐにでも、この感動を誰かと分かち合いたいと思った。が、一人で観に行ったため語る相手もいない。こういう時はインターネットだ。ネットで「映画 沈黙」と検索して見つけたのが、この記事である。

 

www.excite.co.jp

 

ふむふむと読み流していたが、どうしても納得いかない部分がある。

 

飯田 奇形化とか言ったらさ、ロドリゴは踏み絵を踏んだけど本当は信仰を捨てていなかったって話になってるけど、あれこそ勝手な奇形化でしょう。殉教するのが筋だから。本来。 

 

飯田 「地獄に堕ちた者にはいかなる救いもない、信徒の親族であっても例外ではない」ってザビエルとかが言ってたから&死ねば天国行けるっていう短絡化した信仰を抱いているからキリシタンは転向しなかったわけで。目の前で誰かが苦しんでるから(かたちだけとはいえ)棄教するなんてのは本来ぬるすぎる(とカトリックの人たちも遠藤周作を批判してました)。

 

飯田 信仰をもたない人間にはロドリゴの悩みは切実な葛藤に見えるけど、ガチな人にとっては「は? あんなの問題にならないっすよ」ってことみたいですね。 

 

飯田氏は「殉教するのが筋」「棄教するのはぬるい(とカトリックの人たちが批判していた)」「ガチな人にとってはロドリゴの悩みは問題にならない」とコメントしている。

 

この記事の中では散々『沈黙』が「誤読」されていることについて批判的なコメントをされていた。

が、正直言って「誤読」しているのはご本人では?と思った。

 

全くもって主題を理解していない。評論家気取りも甚だしい。

ここで彼の言う「カトリックの人たち」および「ガチな人」とは一体誰を指すのだろうか。

この作品は、そういう人々に対しての問題提起であり、「こうあらねばならない」に対するアンチテーゼが描かれていたではないか。

 

「この俺は転び者だとも。だとて一昔前に生れあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑されずすんだでありましょうに。禁制の時に生れあわされたばっかりに……恨めしか。俺は恨めしか。」 (p.181)  

  

 聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見なされているかもしれぬ。だがそれがどうした。それが何だというのだ。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだと彼は唇をつよく噛みながら首をふる。( p.272) 

 

(何がわかるか。あなたたちに)

ヨーロッパにいる澳門の上司たちよ。その連中に向って彼は闇の中で抗弁をする。あなたたいは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。(p.272)

 

彼らにこの映画を批評する資格などないと思う。自称キリスト教徒の話を鵜呑みにするのは愚かしい。なぜなら、時代も境遇も違うからである。『沈黙』とはそういう話だ。まずは聖書を読もう。しっかり読んでくれ。それから『沈黙』を精読してくれ。頼んだ。批評家の義務だ。