不完全で不器用な人たちについて

 先日、グザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』を観た。

 この映画では「こうあるべき」という理想像からはみ出してしまう人間たちが描かれている。「母なら明るく家庭を仕切らなければならない」だとか「兄なら踏みとどまっている妹の背を押してあげるべきだ」だとか、役目を果たさねばならないと思い込んでいる。にも関わらず、その役目を上手に実行できない。どうしようもなく不器用な人間たちなのだ。

 このような人間像は、同監督の作品『わたしはロランス』にも見受けられた。ヒロインは突然愛する彼氏から「女になりたい」と打ち明けられる。「彼のことを愛しているなら、たとえ性別が変わったとしても愛すべきである」と愛する努力をするが、結局頓挫してしまう。彼女が愛しているのは、あくまでも異性としての彼であった。よく聞く「愛に性別など関係ない」などという台詞を言うことができなかったのだ。だから彼女は苦悩した。

 「こうあるべき」という理想と現実のギャップに苦悩する不器用な人々。もしかしたら、グザヴィエ・ドランは彼らのそんな不完全さに惹きつけられたのだろうか。わたしも、不完全な彼らにどうしようもなく惹きつけられた。

 わたしはヒーローになりきれなかった登場人物たちのことを愛している。その理由は、不足の美ではない。たしかに枯山水とかミロのヴィーナスとかサモトラケのニケは、不完全だからこそ強烈に人を惹きつける。しかし、この場合はあくまでも自己愛の延長だ。わたしも彼らと同じように不完全である。不完全な自分のことを嫌悪しつつ、その不完全さも可能ならば愛されたいと思っている。不完全な他者を肯定してあげることで、自分のことも肯定しようとしているんだ。そのままでもいいんだよ、って。完璧を追い求めなくていいんだよ、って。きっとヒーローになりきれなかった登場人物たちに自分を重ねているんだ。『たかが世界の終わり』も『わたしはロランス』も痛いほど不器用な人たちばかりだった。わたしは、わたしそっくりの彼らを一人一人赦し、一人一人愛したいと思う。

 そして、わたしのように不完全で不器用な人たちが赦され、愛されますように。