デセールはクライマックスでなければならない

もう我慢できないから書かせてくれ。デセールはクライマックスであるべきだ。食後のおまけではない。輝かしいフィナーレ、物語の最高潮であるべきだ。

 

わたしは常日頃から、フレンチのコースと文学作品は同じようなもんだと思っている。

 

まず、席につくと何も置かれていないお皿があるじゃない?あれはサービスプレートだとか、化粧皿とか呼ばれているんだ。みんな知ってるかな。あのお皿は、小説のタイトルみたいなもので、これから始まるめくるめく物語の展開を予感させるものなんだよ。

 

アミューズブーシュはエピグラフアミューズはプロローグ。オードブルは起承転結の起。パンとスープは承。転はメインのお魚とお肉。物語の佳境。ここでピークを持ってくるのは、一見正しいように思われる。あとは適当におまけのデセールを結に持ってくる。まあ甘けりゃなんでもいい。珈琲でも飲みながら徐々にフェードアウトして、ハッピーエンドにでもすればいい。そうして人の印象に残らない、つまらないお話ができあがるんだ。そう思わない?

 

デセールに与えられた役割は、佳境を過ぎた物語をいかに締めるか、ということ。せっかくメインであんなにも美味しい料理を出したのだから、華々しいフィナーレを飾ってくれよ。そうだなあ。あの仔牛のコルドン・ブルーはとても美味しかった。きつね色の美しい衣にさくりとナイフを入れると、チーズが溢れて付け合わせのお野菜と絡まってゆく。衣の中の仔牛の肉、ああ罪深い柔らかさなんだ。いやはやメインは美味しかった。美味しかっただけに、デセールのハードルは上がるわけだ。そのハードルを、レストランはどうにかして越えなければならないと思うわけですよ。

 

ただの大学生が知ったかぶって何を言っているんだって感じだけど、文体(あるいはスタイル)を貫通するべきだと思うんだ。物語は完結するまで作者の文体が貫かれねばならない。文体とは、どこを切っても同じように流れる血であって。コース料理もそれと同じで、徹頭徹尾シェフの文体が貫通していなければならない。だから、デセールはおまけなどではなく、シェフの文体をそのままに、物語をより高尚に、より感動的に伝えるためのお皿であるべきなんだ。

 

って、オペラを食べながら思った話。もっと美味しいデセールを食べたい。