高い本を買えるようになった話

欲しかったけれど、値段が高いという理由で購入を諦めてきた本がたくさんある。

 

少ないお小遣いの中で、せいぜい文庫本を数冊買うので精一杯だった中高生のわたしにとっては、2万円の『幻想文学大事典』なんかとてもとても買えなかった。そうして諦めてきた本の数々のうちのいくつかは、一生出会えないものかもしれない。だって、一冊の本との出会いは千載一遇だから。

 

逆に、あのときに購入しなかったのに再び出会えた本だってある。かつての片思いの相手と再び出会うことができたら、運命だとしか思えないよね。まるで泉鏡花の『外科室』みたいに、一目惚れした相手と思わぬ場所で再会して...なんて。ロマンチックなこと。

 

最近、そんなことがあった。

 

先日、神保町で村上芳正の画集に出会った。「村上芳正」という名前を見ただけで、細緻な線や点で描かれた花や女性の脆く儚い美の芳香が思い起こされてくらくらと眩暈がする。

 

高校3年生の夏休みのある日、予備校のビルの入り口で「あ、今日はサボろう」と思った。蝉の鳴き声が「ミーンミーン」とうるさくて、無性にイライラしたんだっけ。授業をサボって、そのまま電車に乗ってなんとなく弥生美術館へ行った。その日開催されていたのは、「村上芳正原画展」だった。思い出の装丁家

 

展示を見終えたわたしは、彼の画集が売られているのを見た。当時は1冊5000円もする画集なんて高くて高くてとても買えなかった。喉から手が出るほど村上芳正の画集が欲しかったけれど、我慢してポストカードと缶バッジを買ったっけ。それからおよそ3年が経った今、再び村上芳正の画集と巡り合い、なんの躊躇いもなく買うことができた。3年前のわたし、お待たせ。

 

大人は大人になったことを自覚しづらいと思う。でも、昔欲しかった高い本を買えるようになったわたしは、一歩確実に大人に近づいたはず。

 

 

 

レストランに行った話

 先日、クーカーニョというレストランに行った。渋谷のセルリアンタワーの最上階にあるフレンチレストランだ。永妻シェフのプロヴァンス料理がいただける。かつてはミシュランガイドに一つ星がついたこともあるらしい。ドレスコードがあるし、良いお店なんだろうなとは予想していた。が、予想していたよりもずっといいお店だった。およそ大学生には相応しくないレストランだった。フロアに足を踏み入れた瞬間、東京を一望できる贅沢な夜景が眼前に広がる。はしゃぎたい気持ちを抑えるのに一苦労した。周りのお客さんは誰一人はしゃいでなんかいなかったし。もしかしてみんなはしゃがないように無理やり気持ちを抑えつけていたりするのかな。まあいいけど。

 

 特に誕生日でも特別な日でもなかった。ただ、ローラン・ジャナン氏のデセールをどうしても食べたかっただけだ。それであんなに良いレストランに足を運ぼうと思い立った。(それくらいの勢いじゃないと、たかが大学生があんなレストランに行くことなんてないはず。躊躇うもん。)ローラン・ジャナン氏はホテル ブリストルのパティシエで、毎年このシーズンに日本の若きパティシエたちにデセールを伝授するべく来日しているとのこと。今回いただいたコースは、彼のデセールを基軸にして編まれているとのこと。

 

 コースはアミューズブーシュ、前菜、スープ、お魚料理、お肉料理、アヴァンデセール、グランデセール、ミニャルディーズといった感じだった。それぞれ思い出しながらメモ程度に書いていきたい。

 

 アミューズブーシュはトマトのジュース。パレットに見立てた可愛らしいお皿に、絵の具のチューブが乗っている。歯磨きのペーストかと思って、今時のモダンフレンチはすごいなと感嘆してしまった。が、よく聞けば、チューブにはバジルのジュレが入っており、「お好みでどうぞ」とのこと。パレットに絵の具を乗せるようにしてジュレをかける。爽やかなトマトの酸味が口いっぱいに広がる。

 

 アミューズブーシュは、意外とシェフの実力の見せ所だと言う。一番初めのお皿が美味しくなければメインにだって期待できないのだから。これからどんな料理が運ばれてくるのだろうと思うとワクワクが止まらず、頬が緩む。思わず連れの顔を見ると、連れも頰が緩んでいた。多分同じようなことを考えていたのだろうと思うけれど。

 

 それからタスマニアサーモンのマリネのポーピエット仕立てと、キャヴィアのタルトレット。タルトレットのさくさくとした食感のパイ生地は塩味が効いていてとても美味しい。マスの卵のフレンチキャビアをいただいたのは多分生まれて初めてだった。小さくぷつぷつした食感が楽しい。

 

 フォアグラのロワイヤルとツバメの巣のコンソメスープ。ロワイヤルというのは洋風の茶碗蒸しのことで、要するにフォアグラの茶碗蒸しだ。干し葡萄がアクセントになっている。贅沢の限りを尽くしたような一皿。

 

 素敵な笑顔のギャルソンがパンを運んできてくれる。7種のパンから好きなものを好きなだけ選ばせてくれる。ちなみにパンはセルリアンタワーで作っており、販売はしていないとのこと。選んだのち、きちんと温めてからサーブしてもらえる。わたしは硬めのフランスパンをいただいた。連れから一口だけ食べさせてもらった海藻のパンも美味しかった。おかわりでは胡麻がふんだんに使われたミディアムハードのパンをいただいた。これも美味しい。

 

 そしてお魚料理。旬魚鱸のグリエ。色とりどりの野菜が盛り付けられた目に楽しい一皿。香草とレモンオイルのソースをつけていただいた。鱸の食感たるや!!!なんであんなにぷりぷりしているんだろうね、悩ましい限りだった。

 

 メインはフランス産ミルクフェッド仔牛のロースト。じゃがいものピューレときのこ。なんでもミルクしか与えていない仔牛だそうで、めちゃくちゃ柔らかい。こんなに美味しいお肉があるのかと驚かされた。ギャルソンに「ミルクの香りもすると思います」と言われたが、正直よくわからなかった。勉強不足です。

 

 さて、ここからがお待ちかねのデセール。アヴァンデセールは、グレープフルーツのソルベ。カンパリの風味がする。その下に柔らかいハイビスカスのジュレが敷かれている。美味しい。

 

 グランデセールは2種類あったので、連れとわたしで一皿ずついただいた。まずは金塊をイメージしたと言われるトロピカルフルーツのデセール。キャラメリゼしたピーカンナッツマダガスカル産ヴァニラアイスクリーム、胡椒風味のパッションフルーツのジュが乗ったアシェットデセール。トロピカルフルーツの酸味がアイスクリームの濃厚な甘味と調和し、なんともバランスの取れた一皿。

 

 それから、コーヒーとコニャックのデセール。コニャックのパルフェと炒ったヘーゼルナッツ、ブルーマウンテンコーヒー風味の軽いクリームが乗ったアシェットデセール。コニャックの香りが鼻を突き抜け、なんとも大人っぽくてクラクラと面食らってしまうようなデセールだった。 

 

 最後に、ミニャルディーズをコーヒーと一緒に。ラズベリーの生チョコレート、レモンのマカロン、ピスタチオのギモーヴとラズベリー、シロップの薄い膜で包まれたグレープフルーツの4つ。すべて美味しい。特にシロップの薄い膜で包まれたグレープフルーツは見た目も可愛らしく、食感もぷちっと弾けるような楽しいものだった。素敵なギャルソンのお兄さんが「個人的にはイクラみたいな食感だと思います」と言っていたのが少し面白くて印象的だった。

 

 素晴らしいコース料理だった。ただの大学生には贅沢すぎる体験だった。あのレストランでは、時間の流れはかくも緩慢だったかと不思議になる。とにかく優しく穏やかで落ち着いた雰囲気を楽しめる。夜景もとても綺麗だし、多分デート向きのレストランだと思う。カップルは1人2万円くらい握りしめて行くといいよ。

 

 今回はローラン・ジャナン氏のデセールが食べたいという理由だけで良いレストラン に飛び込んだわけだけど、本当に素敵な時間を過ごせた。アミューズブーシュからミニャルディーズまですべて綺麗で、美味しかった。は〜また機会があれば行きたいな。

ものを書くことについて

なんの躊躇いもなく「ものを書くことが好きだ」と言える人がすごく羨ましい。

というのも、わたしにとってものを書くという行為は常に苦痛を孕んでいるから。

わたしにとってものを書くということはただの自傷行為でしかない。

己の心奥を己の手で深く抉ることが必要になる。

だから、いつまで経ってもものを書くことが好きになれないんだ。

香水の寓話

硝子細工の香水壜をなんとなく手に取ってみた。冷たい蓋をそっと外してみると、華奢な少女がわたしの前に現れた。彼女の絹のように滑らかな亜麻色の美しい髪が揺れると、仄かに牡丹の花の香りが立つ。磁器を思わせるような白くなめらかな肌は、わたしが手を伸ばすと消失してしまいそうだった。琥珀の宝飾品のような薄い飴色の虹彩は、わたしの視線を逃れるように伏目がちになっり、わたしはその長い睫毛の連続する運動から目を離すことができない。薄い薔薇色に染められた頰と、小さく控えめな鼻、艶やかな桃色の唇、そしてそれらの均衡。軽く握っただけで折れてしまいそうな小枝を思わしめる華奢な体躯。彼女に触れてみたいという衝動に襲われ、壊さないように壊さないようにゆっくりと手を伸ばした。彼女の白魚のような細長い手指を掴みかけた瞬間、わたしの手には何か硬質なものが当たり、かたんと音を立てた。はっと気づくと少女の姿は何処にもなく、柔らかな牡丹の花の残り香と共に、豪奢な硝子の香水壜が机の上に倒れているだけだった。

夢の話

うだるような暑さと倦怠に疲弊しきった体躯
遮光幕から射し込むは一筋の月明かり
水を張った静けさと規則的な呼吸の音
己の頬に触れる優しい手指
誰のものでもない過去への意識の介入は可能か
鍵盤の旋律に想いを馳せる
芳香な紫煙がゆるりと揺れる
一角獣の誕生について
シャツの袖を掴み引き留める手
緩慢な振動に目を醒ます
人魚姫の淡い夢物語
苦すぎるちよこれゐと
結い上げて一つにまとめた髪
ほくろの位置についての言及
古びた階段の軋む音
私たちには似合わない陽の光

デザートの極点を見た話

 

こんなにもスイーツに感動したのは生まれて初めてかもしれない。港区に期間限定で出しているお店でデセールのコースを食べてきた。デザートが6皿出てくるという女子垂涎モノのコース。

 

わたしは今までいろいろなパティスリーでケーキを食べてきたし、それなりに美味しいケーキを食べてきたはずだ。チョコレートだってそう。焼き菓子だって和菓子だってそれなりに美味しいものを食べてきたはずだ。

 

でも、今日いただいたデセールコースはそれらを優に越えた。それどころか天井をブチ破って極致にまで到達してしまった。デセールが到達しうる頂点に辿り着いてしまった。パティシエールのお姉さんお墨付きのお店だったので期待値は高かったはずだが、想像していたよりもはるかに美味しかった。

 

あまりに完璧な6皿だった。悔しいほどに完璧なコースだった。

 

せっかくなので、一皿一皿思い出しながらメモと照らし合わせて書きしたためておこうと思う。

 

まず、キャベツと林檎のジュース。文旦という柑橘の果物のオイルを混ぜているらしい。すっきりとしていて口当たりも良く飲みやすい。

 

次にパンナコッタと凍らせたヨーグルト。オリーブオイルとバルサミコ酢がいちごの砂糖漬けの上品な甘さを引き立てる。鮮やかな花弁を喰むと口内に花の香りが広がる。

 
続いて檸檬を使ったデセール。檸檬のシャーベットとサワークリームに檸檬と蜂蜜のソースがかかっていて酸味と甘みの均衡が絶妙。乾燥させた檸檬の果実とパイの生地の食感が楽しい。
 
そして豆類を使ったデセール。緑色が目に鮮やか。えんどう豆のケーキに発酵バターを加えたクリームと抹茶のパウダーがかかっていた。スナップエンドウのピューレと聞いて恐る恐る口にしてみたが、口溶けが滑らかで塩味が効いていてすごく美味しかった。まぶされたピスタチオとミントの相性が最高。パティシエの方は天才だと確信した。
 
チョコレートのデセール。球状のフォンダンショコラと桜のアイスに温かいチョコレートが贅沢にかけられている。ヴァローナのチョコレートらしい。少ししょっぱいチョコレートのサブレと桜のメレンゲ菓子が乗っていた。
 
最後はシンプルなクレープ。凍らせたバターを焼きたてで温かいクレープの熱で溶かして食べる。こんなにも美味しいクレープがあるのかと驚愕した。
 
デザートが6皿と聞くとチョコレートやら砂糖やらを連想して胸焼けしそうだが、実際に食べてみると、酸味や塩味がアクセントになるように計算して作られているため全く飽きが来なかった。どれか一皿が取り立てて美味しい、というわけではなくて、コースとして成立していた。とにかくバランスが良かった。一皿一皿見た目が凝っていて目にも楽しかった。
 
デセールとは、食事のおまけではなくて芸術だと心から思った。メニューが変わったらまたあのお店に行こう。
 

紅をさすということ

 わたしの好きな日本語表現の一つに「紅をさす」という言い回しがある。特に、頬紅や口紅をつけること。別に「つける」でも「塗る」でも構わないけれど、「紅をさす」というこの微妙で繊細なニュアンスが好きで仕方がない。この言い回しを聞くと思い浮かべるものーー細身の紅筆、握る手の冷たさ、筆先を平たく整える細やかな指、ルージュの鮮明な赤色、覗き込む小さな鏡、筆に触れた瞬間に染まる唇、妖しく艶やかな微笑み。これはわたしだけの感覚かもしれないけれど、「紅をさす」という表現には「つける」「塗る」にはないようなニュアンスを含んでいると思う。

 そもそも「紅をさす」という言葉はどこから生まれたものなのかと気になって、日本における化粧について少し調べてみることにした。

 古代より魔除けとして赤い塗料を顔に塗る「赤化粧」は広く伝わっていたようだけれど、その後飛鳥・奈良時代に隋や唐より化粧品や化粧法が伝えられたという。この時代は唇を濃い赤色で染め上げる化粧が主流だったという。平安時代になると、遣唐使廃止の影響により国風文化が栄え、女性の化粧方法も日本独自のものへと変化を遂げた。ここで、下唇にほんの少しだけ「紅をさす」風習が生まれたという。鎌倉時代から戦国時代にかけては、新しい化粧法として頬紅が取り入れられていった。しかし、江戸時代初期には女性向けの教養書に「紅などはうすうすとあるべし」などの記述が見られ、薄化粧が推奨されたという。また中期以降になると、非常に高価な紅花を多量に使って唇が黒に近い黒緑赤色になるまで重ね塗りする「笹紅」という化粧法が流行したともいう。

 つまり、口紅を「塗る」習慣が出来たのは飛鳥時代。口紅を「さす」習慣ができたのは平安時代、ということ。平安時代より日本人の女性は口紅を塗らずに「さし」てきた。果たして、この微妙な言語のニュアンスは日本人独自のものなのか。

 英語では「口紅を塗る」ことを"put on lipstick"や"wear lipstick"、"apply lipstick"という。"wear"の使用は結構好きだし、相性がいいと思う。ただ、これでは「さす」というニュアンスが伝わらない。「薄くつける」という時もただの"put on light lipstick"だし、"spread out lipstick with finger"だとどうも娼婦っぽい。いまいち「さす」に対応できるような英語が思いつかなかった。

 じゃあ、アラビヤ語はどうだろうと思って辞書を引いてみた。「口紅を塗る・つける」ということは"استخدمت احمر شفاه"だという。ここで使われている動詞は"خدم"(仕える、雇う)という動詞のX形で、意味としては、"to employ, hire, take on, engage the services, to use, make use"で、なんだか不思議な言語感覚だなあと思った。これも「さす」という微妙なニュアンスを孕まないようだ。

 また、「紅色」とは「赤色」ではない。「赤色」はあくまでも光を表す言葉で、「夜が明ける」時に空が白むように「あかるくなる」ことが起源だ。一方「紅色」は、紅花から抽出された染料の鮮やかな赤色を指す。(余談だが、紅綬褒章のリボンの色は紅色。日本国旗の日の丸もまた、紅色と決まっている。紅葉に関しても、葉が紅によって染められてゆく光景を髣髴とさせるため、「紅」という言葉が当てられているという。)紅色はずっと情趣的な色だと見なされてきた。

 うろ覚えだが、どこかの雑誌でshu uemuraやDiorが日本の「紅色」からインスピレーションを受けて作ったルージュが紹介されていた。誌名も時期もはたまた品番すらも覚えていないので恐縮だが。トレンドのせいもあってか、しばしば「紅色」の口紅は一口に「赤リップ」と呼ばれるが、これは勿体ない気がする。「紅」「紅」だ。どうせだったら言葉は贅沢に使った方が楽しい。

 紅色は気高く、また凛々しい色であるがゆえに、身につける女性にはそれ相応の内面が求められる。だが、わたしの友人はCHANELの99番の真紅の口紅を躊躇いもなく引く。それもわたしの目の前で堂々と引く。小さく整った唇は口紅が触れた瞬間に紅く染まる。その所作は、まさに「紅をさす」という言葉を連想させる美しい所作だ。わたしはその光景に痙攣的な美をおぼえる。彼女は「ルージュを引く」という言葉を使うけれど、わたしにとっては「紅をさす」所作そのものだった。彼女は気高く、凛々しく、しなやかで強い自我を持っているからこそ、「紅をさす」に足る女性だと言えるのだと思う。

 こんな散文を書こうと思ったきっかけは、先日資生堂の美容部員のお兄さんが「紅をさす」という言い回しを使っていたからだ。美しい日本語だとつくづく思い、今回「紅をさす」ということについて考えてみた。「紅をさす」に見合う女性になりたいものだとぼんやり思った。