『美味しい料理の哲学』からアシェットデセールについて考える
今、廣瀬純先生の『美味しい料理の哲学』という本を読んでいる。
この本の趣旨は、読者に「"美味しさ"について語れるだけの語彙と思考を掴ませること」だ。豊かな現代社会において、もはや「食」は生物学的な機能を必要としなくなった。現代を生きる我々は「美食のコミュニズム」に到達したはずなのに、それを語りうるだけの語彙を持ち合わせていない。美味しい料理を「美味しい」以外の言葉で表現することができないのだ。だから健康的か否かのものさしでしか料理を測ることができない。そんな我々にとって、本書は「美味しさの論理」を掴む契機になるはずである。
本書では一貫して「美味しい料理は骨つき肉の構造を持つ」と述べられている。非常に面白い指摘だ。多面的な美味しさが潜在的に含まれている「肉」と、その美味しさを支える「骨」の構造。そして、あらゆる調理法によって「肉」の美味しさを多面的に引き出す料理人の創造性についても触れられている。
このくだりを読みながら、わたしの大好きなパティシエールの顔を思い浮かべていた。
彼女のアシェットデセールは、今までどのレストランで食べたデセールよりも美味しい。(アシェットデセールとは「お皿に盛られたデザート」を指す。作ってすぐ提供されるため、冷たいアイスクリームと温かいチョコレートソースなど、異なる温度や異なる素材を一緒に盛ることが可能になる。「この瞬間」しか食べることができない刹那的なデザートである。)
彼女のデセールは、他と何が違うのか。あれこれ考えていたが、あくまで「素材中心」にお皿をデザインしていることではないかと結論付けた。彼女は「ベリーのお皿」では、苺をドライフルーツにしてみたり、アイスにしてみたり、ソースにしてみたりするのだ。たった一つの素材から、色々な表情を引き出してくれる。素材が同じだったり、似ているものだったりするから、お皿全体に統一感が生まれるに違いない。つまり、彼女は苺という「肉」から、その豊かな創造性でもって多面的な美味しさを引き出している。
多くのシェフやパティシエは、アシェットデセールを作る際に味覚と味覚の掛け算をしているように思う。気が遠くなるようなことに敢えてチャレンジする姿勢はかっこいい。しかし、味覚と味覚がお互いを相殺し合ったら全て水の泡。いくらInstagram映えしようが、なんとも首を傾げてしまうような味になってしまう。
は〜。なんと悩ましいことに、大好きなそのパティシエールはもう退職してしまった。偶然わたしが彼女の働くレストランに予約をしていた日が、最終出勤日だった。彼女の最後のデザートは天下一だった。恋しいな。また食べたいな。